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ワールドカップ考 [ふと、思ったこと。]

なんと、4ヶ月ぶりの日記です。

ロースクール三年目はなかなか忙しい幕開けであったり、いろいろへこむことがあったりで、日記を書く気もせんかったとです・・・。(やや古い感は否めないf^-^;)

この4ヶ月間にもあれこれあるにはあったので、ちょこちょこ前の日付のことも書くかも。友人には「なんか、前にはなかった過去の記事がいきなり出ていてびっくりするよ~」と言われてます。あれ?と思ったら見てみてね、と(苦笑

さて、ワールドカップですよ。現在、ブラジル4-日本1です。こうなったほうが安心して見られる・・・なんてひどいことを考えたりしちゃいました。だって、日本がリードしてるときって、もう「気ぃゆるめるなよ~(T^T)」って気が気じゃないんですもん。。

三戦とも欠かさず見ていますが、すごく歯がゆいというか、なんというか。

私は中田英寿選手が好きです。だから、すごく歯がゆい。

WBCのときのイチローもそうだけれど、「期待してほしい」と正面きって言える、そしてそれに見合うだけの実力を持っている人には、純粋に憧れます。そういう人が、チームに苦言を呈する。不遜だとか、孤立しているとか、関係ないところで言うのは簡単でしょうが、「自分が言うことで、なんとか状況を良くしたい」とあえて厳しいことを、顕名で言える人にも憧れます。中田選手は、そういう人だと思います。

オーストラリア戦。最初から最後まで、90分間、ちゃんと走っていた選手は中田選手だけでした。

クロアチア戦。ゴールを狙う意識を行動につなげたのは、FWの選手たちでなく、中田選手でした。

以前「中田不要論」があったけれど、日本チームに中田選手は不可欠です。才能と、精神力と、たゆまぬ努力をする姿勢を持ち合わせた、「妥協」を許さない選手だと思います。

日本人は、(っていうとあまりにも一般化しすぎていて論理的でないとの批判もあるかもしれませんが、)中田選手のようなタイプよりも、愛嬌があるタイプのヒーローを好む気がします。「団結しようぜ!仲良くいこうぜ!!みんなでがんばろうぜ!!!」という表情や、ちょっとした弱点や、そういう類の感情を見せる人が好きなのかもしれません。ワールドカップ前の「中田はイチローになれるのか?」という記事を思い出しながら、ふと思ったことです。

WBCで、いつもクールなイチロー選手が「アツいじゃん!」と評価されたのは、いわゆる「愛国心」みたいな何かを前面に出していると、観客が思ったから、というのもありますが、「世界のイチロー」が日本の選手たちに慕われていたり、じゃれあったりするシーンが効果的に漏れてきたせいかもしれない。

でも、日本の野球と日本のサッカーは、やはりレベルが違うと思う。選手の気構えとかも、違うと思う。だから、ナカタはイチローにはなれない。いや、ならないで欲しい。これからも、苦言を呈し続ける「孤高の人」であってほしい。そういう物言いをするだけの資格(、と私などが言うと偉そうですが、)を持っている人だと思います。

私が小学生のころは、KINGカズがいました。今は中田選手がいます。中田選手は「ポスト・カズ」ではなかった。「ナカタ」という新たなっていったら変だけど、そういうポジションだと思う。KINGじゃなくて、ONLY ONEのナカタだと思う。・・・うまく言えないけど。

最後に。「何かをやってくれる!」って思える人が、FWにいてほしかったと、心の底から思います。自分で自分を「○○職人」みたいに言う人のことはいまいち好きになれないっていうのもあるんですが、やっぱりFWはゴールを狙ってなんぼだと思うのです。たとえば、ぜんぜんタイプは違うけれど、かつてのゴン中山とか、「何が何でもゴールにせまってやるぜ!!」ってガッツが見たかった。じゃないと、どうしても、「だから久保にしとけばよかったのに~」って思っちゃうからです(>-<)

と、書いているうちに、日本にとってのワールドカップが終わりました。課題山積だけれど、アツい梅雨をありがとう、と言いたいかな、今は。

中田選手がピッチを去ろうとしない。泣いているように見えるのは、気のせいだろうか。はがゆいんだろうな。


試験中の備忘録(仮) [ふと、思ったこと。]

2年生後期の試験も残すところあと3科目。「でき」は・・・かつてないな。色々な意味で。

そんなことはどうでもよくて。今日はいろいろなところで議論が渦巻く日であった。この、「議論」というやつ。面とむかって、顔を見ながら、自分の言葉で、そして何より、相手の言葉を真摯に聞きながら、やるにこしたことはないのだ。「何か」の一面を見て、それを自分の気心の知れた仲間内で、「どう思うよ?」「いや~、だめでしょ。」というやり取りで満足していては、その「何か」との間の溝はどんどん深まり、広がっていく。

しかも、それを文字でやり取りしてしまうと、更にどうしようもなくなる気がする。その上、その「何か」が属する集団をひとくくりに、あるときはその集団の他の個体を敷衍して、またあるときは当該「何か」の個性を敷衍して、論じていくとき、そこには更なる誤解と、取り返しのつかなさが生まれる。そして、文字にしてある故に、過激に見えすぎることもある。

はたから見ていると、非常にはがゆい。議論は、面とむかってするべきだ、と思う。心から。


誕生日会にて [ふと、思ったこと。]

友人の部屋にて三人まとめて誕生日会。(参加者は五人。)友人のうち一人はなんと調理科出身であると判明。

そして「男の手料理」も振舞われるも、ワインの飲みすぎにて私はダウン→数口しか食べられず。申し訳ないことこの上ない。

今回は誕生日祝いという以外にもおめでたい話などあり、楽しい会でした♪

なんで今回の記事が「ふと、思ったこと。」に分類されているかと言うと、まあ、この誕生日会参加面子の要請でありまして・・・。更に下の「」内の文を掲載しておくように、との要請も、美学専攻の友人からありまして・・・。(以下この人を「美学氏」と表記します☆勝手に命名してごめんなさい♪)美学氏曰く、最近更新が滞っていて、ネタにいまひとつキレがない、とのこと。せっかくなので、この会で仕入れたネタを掲載してはどうか、ということになって、さて。

「私の身長はトゥイーティーと同じであります。」

・・・なんのこっちゃわからんがな。(←なぜか似非関西弁)

以前、同じ面子で写真を取った際、某所に設置してある巨大な黄色の小鳥(だよね?)の横というロケーション、しかも私が鳥の斜め後方に立つ、という構図のものがあり、縮尺を気にせずにできあがった写真の像だけを計測すると・・・私と鳥の身長がほぼ同じということなのでした。

解説するとおもしろくないじゃんかっ!美学氏っっ!!

・・・また楽しく飲みたいですね。今度はつぶれないようがんばります。。


むずかしい、、、 [ふと、思ったこと。]

言葉遣い。とつぜん飛び込んでくる電話への応対。心の機微を読み取ること。 刑事弁護の臨床をやると、人間的な成長にもつながると思う。 いろいろと難しいこともあるけれど。 プライベートと仕事の切り替えも大切だと思う。 でもくつろいでいる時にだって担当している事件に関わっている人たちはあいかわらず「事件」の渦中にいる。 刑事弁護の大変さをあらためて感じた。

選ぶということ [ふと、思ったこと。]

人生は選択の連続である、と思う。何かを選んでいるようで、その実、何かを切っていく作業が実は続いているんじゃないかと。

実はこれは高校生のときからずっと思っていたことなんだけれども。

自分の選択の結果が誰かを傷つけてしまうのは、申し訳ないとは思うけれども、そういう選択をするのはそれなりの理由もあり、また、きちんと考えた結果なので、こればかりは致し方ない。

ただ、私の選択は後々、若干の後悔の念を惹起させるほど、変に思い切りのいいところもあって、本来ならば切らずにすむものを誰か自分の大切な人のために切ってしまって・・・という面があるのも事実。しかもその「大切な人」に私が見ていたのがどうやら虚像であったのだなあ、と気づいて、自分から離れてしまったこともあるので、こればかりは弁解のしようがない。誰にって、過去の自分と、自分が切ってしまったものに対して。

けれども、そんな過去の思い出とか、懐かしい人とかと、変な巡り会わせでまたまみえることもあるから、人生はすてたもんじゃない、と思ったのだった。


やることやらなきゃね。 [ふと、思ったこと。]

「強い人に見えるとしたら 本人がそう見せたいからで 自分が人にそう思われたいからやってるわけで つらきゃやめればいいだけ」「強いと思われるのが気持ち良いから強がっているんでしょ なのに『ほんとは弱いのよ』 なんて両方とろうとするのはずるいよね」 

以前読んだ本の一節だっただろうか、もうきちんと覚えてはいないけれど、これは私の背骨になっている言葉である。自分が好んでとった道なら最後まで貫きたいな、と常々思っている。

私はとても感覚的な人間だ。そのせいだろうか、たまに論理一貫性がないというわけでもない誰かの言葉に、ふと違和感を覚えるときがある。二人とも同じことを言っているのに、一方の人には「あなたにそういうふうに言う資格なんてないんじゃない?」と思い、もう一方の人には「あなたと私は考え方や立場が違うけれど、そういう考え方もあるよね」と思うことも稀ではない。

ここ数日またまた色々なことがあったので、じっくり考えてみたのだけれど、ようは違和感を覚えているときは、「やることやらなきゃ、何も言う資格なんてないよ」と、無意識にでも考えているときなのだろう、という結論に至った。

それが冒頭の言葉にどう続くか。やることやってない時っていうのは自分でも薄々わかっていて、誰かに言い訳したくなっているような気がするのだ。で、たまたま言い訳しちゃった相手が、他の人に訳知り顔に「あいつはね、本当は・・・なんだ」なぁんてことを言っちゃったりしたら、普段かっこつけてるぶんだけ、惨めだよね、と思うのだ。うん。

理屈をこねていても何も始まらないし、誰かの受け売りのようなかっこいい言葉を並べてみても自分がやるべきことをできていなかったら、何の意味もない。じっと考えているくらいなら、まず何かやってみたほうがいい。ただし、最低限の「やるべきこと」をやってから。


漢の生き様。 [ふと、思ったこと。]

大相撲の一時代を築いた人が、亡くなった。その人は、私にとって「若貴のお父さん」だったのだけれど、今朝のテレビをみていたら、現役時代に見たかったと思わせる取り組みばかりが流れていて、「ああ、すばらしい力士だったのだ」といまさらながらに驚いた。大鵬に引退を決意させた男。そして、千代の富士に負けて場所途中で引退を決意した、在位50場所の大関。その千代の富士の引退の直接の契機となったのが、息子の貴乃花。なんと数奇な巡り会わせだろうか。

ちなみに・・・私は若貴世代だが、ファンではなかった。物心ついたときにはすでに相撲を観ていたし、一時は幕内力士の全てを諳んじていたのだけど(小学校にあがる前のお話。)千代の富士の引退で、情熱が冷めた。それ以降、特に好きな力士はいない。貴乃花も若乃花も、曙も武蔵丸も、朝青龍も、「つよいなぁ」と思うときはあっても、ぐっとこなかった(こない)から。人生初の絶望は、「千代の富士のお嫁さんになりたいな♪」という私の言葉に父が「あれ?千代の富士ってもう子供いたっけ?お母さん。」と言ったときに味わったくらい、千代の富士が好きだった(苦笑  でも、今朝の『貴乃花対北の湖』にはひさびさにぐっときたのだった。

22歳年上の兄は入門の日、「今日限り兄でも弟でもない、親方と新弟子だ」と言った。後に、今度は自身が、二人の息子に「親方と新弟子」として接することとなる。「親方として、距離が遠いから、二人が引退後、親子に戻るのは難しいかも。」と、まだ初々しい二人の息子の隣で語る姿に、兄ほど「親方」に徹しきれない優しさが覗く。丁寧に質問に答える数々の映像が、その人柄をうかがわせる。不仲な息子同士を気遣う表情。別れた妻への餞の言葉。当時は「大変だね~、親方も」くらいにしか思っていなかったのに、なぜかしみじみと観いってしまった。

どの瞬間も、凛とした「漢」の生き様だった。

ほんの一年と少しくらい前に見かけた、本当に幸せそうに、晩御飯の買い物(?)を楽しむ優しい笑顔の中年男性と、寄り添っていた美女の姿が思い出されてならない。彼女は葬儀に参列できたのだろうか。

 


「曲がり角の彼女」 [ふと、思ったこと。]

ドラマである。わたくし、これと、「汚れた舌」は必ず観る。「汚れた舌」についてはまたコメントするとして。

非常にいい台詞があった。「仕事にむいてるかなんて何年かしかやってないのに判る分けない。」だそうである。あと、「お仕事マシーン上等!」とか。良いこと言うね。仕事をはじめたら、こんなかんじでやりたと思う。(でも、不倫はしない!)

そして、中堅どころになったら、知り合いの弁護士さんのように一見飄々と、しかし着実に、難しいしごとをやりとげたいものである。


雨はきらい。 [ふと、思ったこと。]

さっきから窓の外は雨である。私は雨がきらいである。ちいさいころ、庭の草木や水溜りを打つ雨をぼーっとながめていたときの空気やらなにやら、思い出して胸がきゅ~っとなるからである。

・・・・すごくセンチメンタルにみえるな~。実際の私とのギャップに驚く人もいるかもな。私の知り合いで、なんとなくここを見つけてしまった人とかは、特に(苦笑

ちいさいころ、今の年頃の自分について漠然と描いていたのは、「尊敬するうんと年上の学者と結婚して、赤ん坊がいて、絵に描いたような幸せな奥さんをやって、休日にはお菓子を焼いたり庭の手入れをしたりして過ごし、書斎で執筆活動をするだんな様にお茶を運んであげる」というものである。なんでこんなことを考えたのかはもう今となっては(・・・といってもたかだか15年位前の話なんだけれど)定かではない。もちろんかなり幼い頃の話なので「うんと年上」というのは5~10歳くらい上ということだったように思う。そもそもそんな年で優雅に広大な庭付きの一軒家に住み、執筆に精を出す学者なんてものが、そうそう存在しないことなど知る由もない。専業主婦志望だったのかというと、けしてそうではなかった記憶があるので、「子供の考えることは他愛もないな~」とチョコレート(神経伝達物質いり、ストレス社会で戦うあなたのための「メンタルバランスチョコレート」だそうだ。)をかじりながら、雨を眺めて思い出していたのだった。きっとそのころ「秘密の花園」やら「ジェーン・エア」やらを読んでいた影響で形成された夫婦像であり、将来像だったのかもしれない。

今の自分は学生なので、結婚なんてまだまだとんでもなく先の話で、希望する職に就くためには試験を突破しなくちゃならなくて、幼い私に「残念だったね~」と謝るしかない。けれどもこの生活も充実していて、捨てたものでもないな~、と思える嬉しいこともあったりなんかして、もっともっとがんばろう!という気になるから不思議である。

実は最近すこし怠け癖が出てしまっていたのだけれど、思いがけない評価を、思いがけない人からもらってしまったし、また反対に、「こうはなりたくない」と思う人に出会ってしまったり、少々思うところがあって、この日記を書き終わったら生活態度を改めようと思ったのだ。公開決意表明。

なにかを成したり、えらそうなことを言ったりするためには、それ相応の裏打ちが必要なのだ。でなければただ声が大きいだけ、勢いがあるだけ、と思われても仕方ない。もうすこし丁寧に、毎日を生きてみることにする。

・・・考え事に適しているので、雨の日もじつは悪くない。


よしなしごと [ふと、思ったこと。]

この一ヶ月ほどの間に、色々なことがあって、いろいろな体験をして、思った。人間というやつは自分が思うほどには自分をコントロールできていなくて、それがたまに誰かを不快にする。ふとした表情とか、目配りですら。あるいはそういうふとしたものの端々にこそ、コントロールが及ばず、それが如実に「本心のようなもの」を物語るからこそ、垣間見てしまった他者は不快になるのかもしれない。

たとえば、何かの議論を突然打ち切って、殻に閉じこもってしまった人の表情が、その後もずっと硬かったり、それ以後も私の姿を見た瞬間に一瞬不快感のような影がさして、その後笑顔になったり。尊敬する友人は『人間は自分と意見が対立する人を、自分と正反対の性格、考えをもっていると思い込みたがるし、その話の流れから考えるに、自分は「正しい」側だと思っていれば、あなたは「とんでもない人」ということになってしまうわけで、すれ違うのは仕方ない。』と慰めてくれたが。それ以降も、どうも居心地がわるい空気が、そちらのほうから流れてくるので、もう「この人とまともな議論をすることはもうないんだろうなぁ・・・」と思ったのだった。

私はそいういものにいささか敏感すぎるきらいがある。法律やら他人の人生やらに携わって生きていくことを望んだのだから、笑顔の裏に隠された何かを垣間見てしまうことは、多いはずなので、どうにか慣れようとするのだけれど、難しい。

逆に、私の立ち居振る舞いがどこかで誰かを不快にさせているかもしれないのも、また事実。自分ではうまく隠していると思い込んでいる反発心やら、優越感やらが、ふとした瞬間に私のうえを翳めて、誰かを深く傷つけているかもいれない。

改めてそう考えたのは、数人と話していて、ふ・・・と気を抜いた瞬間に、部屋の隅からこちらを観察している人がいることに気づいたから。一瞬ぎく・・・としたけれど、すぐ意識の下に沈めて会話に戻った。その人と直接話したことはないけれど、何となく見抜かれている感じがした。私がそのとき参加していた会話に少々辟易していること、口角泡をとばして自分の正当性をまくしたてている子をみて、「底が浅いなあ」などと、とても面と向かっては言えないようなことを考えていること。これが露骨に表情にでていたとしたら、同席していた人を傷つけていたことは容易に想像できる。

その人がほんとうは何を考えているか、なんて本当のところは判らないから、人付き合いは楽しいのだろうけれど。


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